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樺太の地質

地質学から見た樺太
カラフト島の地質学的構造

前のページでご紹介したように、樺太の地形は、南北に伸びる三つの部分に分けられます。そして、かつては、この区分が、地質学的な違いをも反映している、と考えられていました。
現在の地質学でも、カラフト島は三つの部分に分けられています。
けれど、その内容は、新たな発見と研究とによって、以前とは違ったものになっています。

中央低地帯と東部山地帯の大部分は、まとめて「主部サハリン帯」と呼ばれています。
逆に、かつては東部山地帯に含まれていた東北山脈は、東側だけが他の地域と性質が異なっていると考えられるようになり、「東サハリン帯」と呼ばれています。
西部山地帯は、海馬島を含めて、「西サハリン帯」と呼ばれています。[9]

これらの地域のうち、東サハリン帯は、ユーラシア大陸と関連が深いとされています。これに対して、主部サハリン帯や西部サハリン帯は、北海道との関連が深いと考えられています[10]
樺太の大部分は、主部サハリン帯や西部サハリン帯に含まれています。ですから、地質学的には、北海道とよく似ていると言えるでしょう。

そこで、ここでは、樺太の地質について、カラフト島の中だけではなく、北海道などとも合わせて見てゆくことにしたいと思います。

カラフト島の誕生

永遠に姿を変えないかのように見える大地も、長い時間の間には、産まれ、消えてゆきます。その位置さえも、いつしか変わってゆくのです。
現在の地質学や地球科学では、「プレート・テクトニクス」という考え方が主流となっています。
これは、海も陸も、「プレート」という移動する板の上に乗っていて、長い時間が経つうちに位置を変えてゆく、という考え方です。
プレートの運動が巨大地震の引き金となる、といった話を耳にしたことがある方も少なくないと思います。

カラフト島も、はじめから現在の位置に存在していたわけではありません。
さまざまなプレートの動きによって産み出され、移動してきたのです。

その証拠の一つは、東部山地帯に残されています。

東部山地帯に属する東北山脈と鈴谷山地は、カラフト島で最も古い部分であり、今から3億年以上前の、「古生代」と呼ばれる時代に産まれた物と考えられていました[11]。この地域から、古い時代の岩石が発見されていたからです。
ところが、現在では、この地域は、それほど古い物ではない事がわかってきました。それどころか、カラフト島自体が、それほど古い時代に産まれた物ではなかったのです。

カラフト島が産まれたのは、今から約140,000,000年前、中生代のジュラ紀と呼ばれる時代が終わり、白亜紀と呼ばれる時代が始まろうとする頃だったと考えられています。

では、なぜ、中生代になってから産まれた地域に、より古い時代である古生代の岩石が存在しているのでしょうか?
それは、カラフト島が、「付加帯」と呼ばれる地域である事に関係があります。

付加帯とは、「付加体」からなる地域の事です。
少しややこしいですけれど、説明してみます。

付加体とは、海溝にできる物です。「付加コンプレックス」とも呼ばれます。[12]
「海溝」とは、海の底にある深い溝です。地球の表面を移動してきたプレートは、ここで大地の底深く沈んでゆきます。
この時、プレートの上に乗っていた海底の土や岩が、ちょうど雪かきをするように捲り上げられ、海溝に溜まってゆくのです。もちろん、海底だけでなく、陸地の土砂や岩石も溜まってゆきます。
こうして溜まった物からできあがったのが「付加」です。付加体によってできた地域を「付加」と呼びます。
読み方は同じ「ふかたい」です(これもややこしいですね)

樺太は、この、「付加帯」なのです。樺太だけでなく、日本列島の大部分も付加帯です。

付加体がどのようにしてできあがった物かを考えれば、いろいろなものが紛れ込み、混じり合っているのも不思議ではありません。
東部山地帯の古い岩石も、どこか遠くからやってきて、カラフト島の一部となった物だったのでしょう。
この事からも、カラフト島の誕生とプレートの運動との間に、深い関係のある事が、お解りいただけるのではないでしょうか。

なお、付加体の中に、海底の構造がそのまま残っているものを「オフィオライト」と呼びます。「蛇紋岩」と呼ばれる岩を含むのが特徴です。
オフィオライトは、樺太から北海道にかけて、広い範囲で見ることができます。
オフィオライトの中にも、大きな塊ではなく、砕かれた破片が他の構造と入り混じっている物があります。このようなものは、「メランジュ」と呼ばれます。
樺太では、鈴谷山地など、東部山地帯を中心に、メランジュが見られます。

このように、樺太の地質は複雑な物であるため、プレートテクトニクスが知られていなかった時代の地質学者は、たいへん苦心しながら研究していました。
当時の論文から、その様子がうかがえます。

樺太の珊瑚礁

付加体に紛れ込んでいるのは、土砂や岩石だけではありません。
時には、大昔の島や、時には大陸の一部さえ埋もれている場合があります。

樺太には、各地に石灰岩の山が点在しており、敷香町内では、特に大規模な鉱脈が知られています。
これらの石灰岩は、どのようにしてできあがったのでしょうか?

石灰岩は、サンゴの化石からできています。
アクセサリーにも使われる、あの、珊瑚です。
サンゴが育つのは、暖かい南の海です。日本でも、沖縄などに見られますね。もちろん、北海道や、まして樺太に、サンゴはありません。
では、なぜ、樺太に石灰岩があるのでしょうか?

これも、やはりプレートの運動から説明できます。
かつて、熱帯の海に浮かんでいたサンゴ礁の島が、プレートの運動によって、太平洋を渡りました。そして、遠い北の海で海溝に沈み、樺太の一部になったのです。[13]
ですから、北国の樺太に、サンゴ礁があるのです。

このような事が起きたのは、樺太だけではありません。
山口県の秋吉台には、現在でもサンゴ礁の構造が残っていると言います。また、北上山地南部にある石灰岩は、オーストラリアとよく似た種類のサンゴからできており[14]、かつて南半球にあったゴンドワナ大陸の岸辺で成長した物と考えられています[15]

緑色岩の分布

樺太から北海道の広い地域に見られる「緑色岩」にも、カラフト島の生い立ちが隠れています。
このような岩は、もともとは一つの大陸だったものが、海溝に沈み込む時に、大きな力によって砕かれ、散らばった物と考えられています。
この大陸は、「空知海台」と呼ばれています。北海道の空知地方から名付けられたものです。

空知海台が生まれたのは、ジュラ紀後期[16]、赤道に近い太平洋だったと考えられています。
その後、この大陸は、プレートの動きによって、三つに分裂します。
そのうちの一つが太平洋を北上して、北海道や樺太の一部となったのです。

では、空知海台と分かれた残りの二つは、どこへ行ってしまったのでしょうか?
一つは、太平洋を越え、カリブ海になったといいます。
もう一つのかけらは、北太平洋の海底に沈み、シャツキー海台と呼ばれる地形になっていると考えられています[17]
樺太とカリブ海、シャツキー海台の場所を、世界地図で確認してみてください。
半球を越えて島々の位置を変え、大陸をも砕く地球の力を、そこから感じられるのではないでしょうか。

一つの島、二つの大地

カラフト島が生まれた後も、大地は動きを止めたわけではありません。
カラフト島は、初めから現在の位置にあったのではありませんし、その形も変化しています。
再び、東部山地帯を見てみましょう。

東北山脈と鈴谷山地とには、どちらにも「高圧変成帯」と呼ばれる地域が存在します。
高圧変成帯とは、複数のプレートが接する境界で、プレートの動きによって強い圧力がかかり、岩石の性質が変化したと考えられている物です。
つまり、東部山地帯は、かつて、プレートの境界にあったと考えられます。

それは、カラフト島が産まれた、白亜紀初め頃のことです。
と言っても、この時代には、まだ山脈はありません。ここはプレートの沈み込む場所、海溝でした。
後に山地となる岩石は、深海の底のさらに奥、プレート境界の地下深くで産まれたのです。

北海道にも、「神居古潭変成帯」と呼ばれる変成帯があり、この時代の東部山地帯と同じ性質を持った岩石が発見されています。
樺太から北海道まで、海溝が続いていた証拠と言えるでしょう。

ところが、その後、東北山脈と鈴谷山地は、別の道を歩むことになります。
北海道の神居古潭変成帯と、鈴谷山地の変成岩とは、よく似た性質をしています。ところが、東北山脈の変成岩は、性質が違っているのです。[18]
岩石の性質が違うと言う事は、その生い立ちが違うと言う事を意味しています。
二つの地域を分けたものは、何だったのでしょうか。

今から約100,000,000年前、白亜紀の後半に入る頃、東北山脈では、火山活動による山脈が産まれます。
これに対して、鈴谷山地では、プレートの沈み込みが続いていました。
そして、鈴谷山地と東北山地の移動する方向は、違っていました。

この事は、各地のメランジュを調べる事によってわかります。
メランジュは、固い岩石が砕かれ、混ぜ合わされた状態になっています。このような物ができるには、非常に大きな力がかかっているはずです。
この力の方向を調べれば、その地域の動いた方向もわかるのです。

この頃、北海道から北へ延びる海溝は、鈴谷山地から東へ大きく曲がり、東北山脈ではなくオホーツク海へ向かっていました。プレートの境界が変化していたのです。
つまり、かつてのカラフト島は、一つの島でありながら、南と北とで、別々のプレートに属していた可能性があります。[19]

なお、この頃のカラフト島は、現在の半分ほどしかありませんでした。
北樺太の大部分は、さらに後、新生代と呼ばれる時代にできあがったものです。
北サハリン平野は大陸と同じ土からできており、アムール川によって運ばれた土砂が溜まってできた物と考えられています。[20]
こうして、カラフト島は、現在のような姿となったのです。

上でご紹介したのは、もちろん、地質学上の一つの仮説です。けれど、太古の自然によって作られた境界が、はるかな後の人間によって作られた境界である日露の国境とよく似ていたのは、面白い偶然と言えるのではないでしょうか。

樺太と「日本の恐竜」

カラフト島の産まれた「中生代」と呼ばれる時代は、恐竜の時代でした。
そして、樺太は、日本で最初に恐竜の化石が発見された場所です。

川上炭鉱の位置

昭和9年、豊原郡の川上炭鉱で、病院の建設中に「脊椎動物の化石」が発見されました。北海道帝国大学(現在の北海道大学の前身となる大学です)の長尾巧博士はこの化石を研究し、昭和11年、新種の恐竜として「ニッポノサウルス・サハリネンシス(Nipponosaurus sachalinensis Nagao,1936)」と名付けました。[21]
この名前、直訳すれば「樺太の日本トカゲ」ですけれど、意味から考えれば「樺太で発見された日本の恐竜」となるでしょうか。
この研究についての論文は、海外でも発表され、世界の研究者から正式な物として認められました。

なお、このような正式な論文を、専門的には「記載論文」(きさいろんぶん)と呼びます。この後、日本で再び恐竜の記載論文が書かれるのは、はるか後、福井県での発見を待たなければなりませんでした。このことからも、ニッポノサウルスの研究が、優れたものだったとわかります。

21世紀に入って、北海道大学の鈴木大輔、箕浦名知男両氏、およびデイヴィッド・ワイシャンペル教授によって、再びニッポノサウルスの研究(再記載)が行われました。新たな発見と同時に、以前の研究が有効であることを確認する結果が出ています。

現在、北海道大学総合博物館福井県立恐竜博物館で、ニッポノサウルスの骨格を目にすることができます。

樺太の化石と古生物

樺太から発見されている化石は、もちろん、ニッポノサウルスだけではありません。
カラフト島は、白亜紀から第三紀の地層から成り、特に、白亜紀の地層は世界でも有数のものです。
中生代の地層からは、アンモナイトの化石が豊富に発見されており、日本の学者によって研究や発見がなされていました。
アンモナイトはあまりにも簡単に見つけることができたため、かつては、山で拾ってきたアンモナイトを装飾品として加工し、売買する専門の業者さえいました。アンモナイトは「菊石」と呼ばれ、帯留めやネクタイピン、置物などが、樺太特産のお土産として珍しがられたようです。
と言っても、学問的な点から言えば、どんな化石にも新発見が隠れている可能性があります。興味本位で扱うことは、あまり感心できないのですけれど……

なお、現在のロシアでも、アンモナイトの化石はお土産として珍重されているようです。
こちらのページで紹介されている様子を見ると、どうやら、一種の観光になっていのではないかな? と思われます。
日本統治時代には、きちんとノジュールなどの中から化石が出てきていたようですから……[22]

白亜紀だけでなく、第三紀の地層からも、貴重な化石が発見されています。

初雪沢の位置

昭和8年、敷香町気屯の「初雪沢」という優雅な名前で呼ばれる谷間で、ある動物の化石が発見されました。
「デスモスチルス」と呼ばれるこの動物は、それまで体の一部分の化石しか発見されていなかったため、どのような姿をして、どのような生活をしていたのか、はっきり判らなかったのです。
初雪沢で見つかった化石も、はじめは、体の一部だけでした。
もしかすると、他の部分も近くに埋まっているかもしれない…… そう考えた、長尾巧博士をはじめとする北大の研究チームは、現地に赴き、谷の周りをくまなく探しました。そして、ついに、ほぼ全身の骨格を、世界で初めて発見したのです。[23]
後に「気屯標本」と呼ばれるこの化石(Desmostylus mirabilis Nagao)によって、デスモスチルスの研究が飛躍的に進歩した事は言うまでもありません。
現在では、デスモスチルスの生態について、当時より多くのことが判ってきています。復元された姿さえ、当時考えられていた物とは、大きく変わっています。
と言っても、過去の研究が否定されるわけではありません。新たな発見は、過去の積み重ねから生まれてくるのですから。

なお、足寄動物化石博物館のサイトには、デスモスチルスについてわかりやすく説明したページがあります。また、気屯標本をはじめとして、さまざまな化石の写真を見ることができます。
東京大学総合研究博物館のサイトには、より詳しい説明が書かれたページもあります。
デスモスチルスは、他の哺乳類とはまったく異なり、カエルなどを思わせる奇妙な姿勢をしていたようです。現在も、まだまだ、謎の多い動物です。

樺太から発見されている化石はこれだけではありませんけれど、それらすべてを紹介することはできませんから、これ以上は触れません。
興味を持たれた方は、ぜひ、いろいろ調べてみてください。
また、もし、あなたが化石を見つけることがあったら、これもぜひ、お近くの博物館などへお持ちになってください。
次の新発見は、あなたが見つけた化石から、かもしれません。