山も、海も、空も

目次

樺太の地形

空から見た樺太
樺太の地形

まず、左のCGを見てください。
これは、「カシミール3D」を使って、二丈岩上空25,000メートルから見た樺太の姿を描いたものです。
地形の凹凸は、わかりやすくするため、4倍に強調しています。なお、左上に見えている陸地はロシア・ハバロフスク地方です。
余談ですけれど、この高さから見ると、地球は丸い、という事がはっきり判りますね。

樺太の地形は、南北に伸びる三つの部分に分けて考えられていました。それを、CGの上で具体的に辿ってみましょう。
手前から奥へと伸びる「樺太山脈」が「西部山地帯」にあたります。
手前中央に見える「鈴谷平野」は、「オホーツク海」を挟んだ「幌内平野」とともに、「中央低地帯」を構成します。
そして、右手前に見える「鈴谷山地」を、「オホーツク海」の向こう側、「北知床半島」から伸びる「東北山脈」とまとめたのが「東部山地帯」となります。

では、空から地上へ降りて、樺太の地形をさらに詳しく見てみましょう。

樺太の山

上で見たように、樺太の山地は、樺太山脈、東北山脈、鈴谷山地に分けられます。
いずれも1,000メートルを超えるような高い山は少なく、最高地点でも1,300メートル余りです。

なお、日本統治時代では、高さ1,375メートルの敷香岳が樺太の最高峰とされています[1]
ところが、ロシアの発表では、敷香岳(ヴォズヴラシシェニヤ山 Гора Возвращения)の高さは1,322メートルとされています。これですと、少し北にある1,325メートルの山(ジュラヴレヴァ山 Гора Журавлева)[2]の方が高いことになってしまいます。
地殻変動などによって高さが変化したのかもしれません。あるいは、測定方法の違いによる誤差かもしれません[3]。それとも、何らかの理由から、正確ではない数値を発表しているのかもしれません……。

いずれにしても、樺太に高い山がないのは間違いありません。このためか、樺太は、なだらかな地形である、と、しばしば紹介されているようです。
地形学上は、起伏があっても、数百メートル以下の土地であれば「丘陵」と呼ばれ、「山」ではないとされる場合もあります[4]から、これもなだらかといわれる理由の一つかもしれません。

けれど、実際には、どうでしょうか?

まず、下の図を見てください。

土地の幅と斜面の角度について説明した図

これは、海に浮かぶ二つの島の絵だと思ってください。同じ高さなのに、幅が狭い方では、斜面の傾きが急になっています。
日本列島は全体に細長く、幅が狭い土地です。上の図で例えると、右の島と同じですね。

次に、下の図を見てください。

真岡、豊原間の断面図

真岡〜豊原間を直線で結び、その断面を南側から見たように描いた物です。
全体に激しい起伏が連続していることがお判りいただけると思います。なだらかと言えそうなのは、豊原の西、つまり鈴谷平野にあたるわずかな地域だけですね。

日本列島全体がそうであるように、樺太も、細長く、幅の狭い島です。ですから、それほど高さはなくても、土地の傾斜は急になってしまうのでしょう。

また、樺太の特徴的な地形である、「海岸段丘」と呼ばれるものも、急斜面が多い原因のひとつです。
これは、台地が積み重なったような地形で、崖状の斜面とテーブル状の平地が交互に現れ、まるで階段のようになっているものです。
このような土地は、樺太の海岸には多く見られるもので、真岡は、その典型的な例です。

ニジェガローツキー・ドヴォール」では、沖合の船上から見た真岡付近の写真を公開されています。海岸段丘の特徴がよく判る、興味深い写真です。ぜひ、ご覧になってみてください。

急な斜面では、数百メートルどころか、数メートルの高低差でも、なかなか登ることはできません。
実際の樺太は、決して、なだらかな土地ではなかったのです。

樺太にいらっしゃった方には、記憶の中に、坂道を思い描く方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?

まっすぐな海岸線

次に、海岸へ目を向けてみます。
樺太の海岸には、先ほど紹介した海岸段丘の他にも、大きな特徴があります。
それは、起伏の激しい地形とは反対に、なだらかで、直線的な海岸線です。

では、樺太の海岸の「まっすぐぶり」を、数字の上から見てみましょう。

まず、比較のために、内地の海岸線の長さを合計します。すると、30,605.458キロメートルになります。
これを内地の総面積である382,562.46平方キロで割ると、1平方キロメートルあたり、0.0800012キロメートルとなります。
この数字を樺太の面積である36,090.30平方キロに当てはめてみましょう。
すると、2,887.2673キロメートルという数字になります。
けれど、実際には、樺太の海岸線の長さは1,534.416キロメートルしかないのです。
このように、日本全体と比べても、樺太の海岸線が短い事がご理解いただけると思います。

海岸線長の比較

単なる四角形と、ジグソーパズルのピースのようなデコボコした四角形とを想像してみてください。面積が同じでも、周りの長さが違うのは明らかでしょう。
海岸線が短いと言う事は、同時に、それだけ海岸がまっすぐだと言う事でもあるのです。

オホーツク海に面する白浦や、亜庭湾に沿う長浜などの海岸に立ったなら、樺太の海岸の「まっすぐぶり」を実感できると思います。
当サイトからリンクさせていただいている中には、樺太各地の写真を公開されているサイトがいくつもあります。海岸線の様子を捉えたものもありますから、ぜひご覧になってみてください。

樺太の川と流域

樺太には数多くの河川がありますけれど、そのほとんどは、短くて流れの速いものです。
ある程度の長さを持った河川は、幌内川、留多加川など、ごく一部だけです。
傾斜が急な土地が多いためですけれど、これは樺太だけでなく、日本列島全体に見られる傾向ですね。

これらの川沿いには扇状地(せんじょうち)が発達しています。「扇状地」とは、河川が山地から平地へ流れ出る場所に土砂が積もってできるなだらかな斜面のことです。
このような土地は地下水に恵まれていて、扇状地の末端にはしばしば豊かな湧水、つまり泉が見られます。

扇状地は、海岸段丘と並ぶ、樺太の特徴的な地形の一つです。

人間が生活する上で、水は欠かせません。そして、扇状地は、水が手に入りやすい土地です。
豊原を初め、鈴谷平野の数多くの集落は、扇状地の上に発達したものです。
同じように、幌内川流域の集落の多くも、扇状地の上に位置しています。そうでなければ、後で紹介する自然堤防の上です。
北海道の札幌も、扇状地の上に発達した都市です。

幌内川流域などには自然堤防も発達しています。「自然堤防」とは、川が運んだ土砂が川岸につもって、文字通り自然にできる堤防のような地形で、周囲よりも土地が高くなっています。
幌内平野の集落には、このような自然堤防の上に成立したものもいくつかあります。
ツンドラの上には殖民できませんし、鉄道や道路を通す事も困難だったからでしょう。上敷香から国境を結ぶ、いわゆる軍道も、扇状地や自然堤防のような土地を縫うようにして走っています。

樺太ならではの特徴として、国境を越えて流れる河川があげられるでしょう。
中でも、幌内川は、しばしば「唯一の国際河川」と表現される場合もあります。
けれど実際には、他にもいくつかの河川が国境を越えて流れていますから、幌内川だけが国際河川と言うわけではありません。
もちろん、その中で最も注目すべきものが幌内川である事は間違いありません。
幌内川は樺太最大の河川であるだけでなく、交通の面からも重要な存在でした。人の移動を初め、木材など様々な輸送に利用されていましたし、平和な時代には、ロシア領まで船で遡る事もできたと言います。

樺太の湖と池

樺太には大きな湖もいくつかあります。
樺太で最大の湖は多来加湖で、当時は琵琶湖、八郎潟、霞ヶ浦についで日本で四番目に大きな湖でした。
そして、多来加湖に続く第五位も、やはり樺太の富内湖だったのです。
「日本の大きな湖ベストテン」を決めるならば、上位五位のうち、二つまでが樺太の湖だったことになります。

湖沼の面積比較

湖の大きさについては、こちらのページも合わせてご覧ください。

この多来加湖をはじめ、ほとんどの湖は海岸にあり、水深が浅い潟湖(せきこ)です。
潟湖」とは、沿岸を流れる海流の影響によって海岸に土砂が溜まって堤防状の地形ができ、それによって浅瀬が仕切られてできる湖です。このような湖には、水深の浅いものが多いのです。
北海道にもサロマ湖をはじめとするいくつかの潟湖がありますし、上で名前の出てきた八郎潟も潟湖です。

このような樺太の湖の中で、異質な湖が富内湖です。
水深が深く、樺太には珍しい構造湖(こうぞうこ)と考えられています。「構造湖」とは、地殻変動によって生じた湖のことです。

逆に、山の中に大きな湖は見られません。土地の傾斜が急なため、水が溜まるような広い土地がないのでしょう。
自然の湖がないかわりに、各地で人工的な貯水池が作られました。これらの池は、水源として重要な役割を果たしていました。

樺太の地図と測量

日本統治時代の大部分を通じて、樺太の測量は完成しておらず、全体の地形図が製作されることもありませんでした。
樺太の市町村界が奇妙に「おおざっぱ」なのも、このような原因があるためでしょう。

とはいえ、実は、地形図自体は存在していました。航空写真から仮製版された物で、縮尺は地域によって1/50,000〜1/15,000と一定していない物だった、といいます。
けれど、これらは軍によって製作された物で、一般に公開される性質の物ではなかったのです。縮尺のばらつきから見ても、整理され、わかりやすく描かれた地図ではなかったことが推測できます。

一般向けの五万分の一の測図が始まったのは、昭和に入ってからだった、といいます。

ようやく測量が終わる頃には、戦争の気配が濃くなっていました。昭和15年になると、地図の販売は制限されるようになり、翌年の昭和16年には、完全に停止されてしまいました[5]。地図は、日常生活だけでなく、軍事にも深く関係している物だからです。
現在の日本では想像できませんけれど、このような事は、戦争中だけとは限りません。例えば、ロシア連邦では、現在でも、サハリン州の詳細な地図を一般に公開していません[6]

けれど、日本統治下の樺太では、他の地方で地図の販売が停止されてしまった後も、わずかながら地図の販売が続けられていたのです[7]。樺太の一部を描いた図だけではありましたけれど、五万分の一図と二十万分の一図が一般向けに発行されていた、との記録が残っています[8]
樺太が、終戦の間際まで、比較的戦争の影響の少ない地域であったことが、こんなところからも、うかがえるようです。