樺太庁って何?

目次

樺太は何県?

現在、日本の領土はすべて、47都道府県のどこかに含まれています。
昔からそうだったのでしょうか?

「樺太ってどこにあるの?」でもご紹介したように、日本統治下での樺太は、「樺太」と呼ばれていました。
都はもちろん、道も府も県も付いていません。これはどういうことでしょう?

地方自治体としての「都道府県」は、「地方自治法」[1]から現れるもので、全国が47都道府県のどこかに含まれるようになったのも、これ以降のことです。
そして、「地方自治法」に、樺太について定めた内容は、見あたりません。

つまり、樺太は「都道府県」ではなかったのです。現在の感覚では違和感がありますね。

けれど、このような地域は樺太だけではありませんでした。
かつては、地域によって、それぞれ異なった行政機関が置かれていたからです。
例えば、北海道も地方自治体ではなく、「北海道庁」という役所によって管轄されていました。北海道も都道府県ではなかったのです。

ここで「都道府県がないのはわかったけど、それなら樺太の地方行政はどうなっていたの?」と、疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
その答えは、次にご紹介する「樺太庁」にあります。

樺太庁とその歴史

都道府県がない代わりに、日本統治下の樺太には、「樺太庁」という行政機関がありました。

樺太庁は、「北海道庁」や「気象庁」と同じような官庁、つまり役所です。
行政上は、しばしば府県とほぼ同様の権限を持つとされ、まとめて「都庁府県」と呼ばれている例もあります。
けれど、樺太庁は府県のような地方自治体ではなく、地方行政を担当する中央官庁ですから、選挙によって選ばれる「知事」はおらず、現在の気象庁や消防庁などのように、「長官」がその長でした。また、樺太には、府県にあるような議会もありませんでした。
当時の公文書にも、樺太には府県が存在しない、と記されています。
上でも少しご紹介した「北海道」を思い出してください。北海道を「北海道庁」とは呼びませんよね? これと同じです。

では次に、樺太庁の歴史について、簡単にご紹介しましょう。

樺太庁が設置されたのは、明治40年3月のことです。日露戦争後まもなく設置された「樺太民政署」に代わる、本格的な行政機関の設置でした。

当初、樺太には、総督府を設置しようと、陸軍が強く主張していました。「総督府」とは、軍人が長となり、行政だけでなく、軍事や法の制定をも行う強力な機関で、当時は台湾に設置されていました。
けれど、この考えに、内務大臣の(そして後には総理大臣になる)原敬が抵抗します。
陸軍は、国防上の必要性などを理由に、樺太に対する強い主導権を発揮したいと考えました。これに対し、原は、樺太を日本の一地方として、内地と同じように扱いたいと考えたのです。
原の熱心な主張によって、軍事とは無関係の地方行政機関である「樺太庁」が発足することになったのです。

とはいえ、樺太庁は、内地の地方行政機関とまったく同じ、というわけではありませんでした。
そもそも樺太庁は内地にあるような府県ではなく、内務省に属する「庁」でした。法令についても、内地とは(例え内容が同じであっても)別に施行されることになっていました。
また、樺太庁長官の権限は府県知事に比べて大きく、立法をはじめ、鉄道、郵便、電信、電話、鉱山、国税などの広い範囲に及んでいました。そして、樺太庁長官になることは、文民だけでなく、樺太守備隊の司令官、つまり軍人にもできる、と定められていたのです。これが陸軍の要望を受け容れたものであろうことは、想像に難くありません。

ともあれ、こうして設置された樺太庁は、その後、何度かの変化を経て、昭和の始まる頃には内閣総理大臣の指揮監督下に置かれていました。
昭和4年に拓務省が設置されると、他の「外地」とともに、樺太庁はその中に組み込まれます[2]
その後、大きな戦争が始まる頃には、時代を背景にして、行政機構の簡素化が強く押し進められるようになりました。この流れの中で、樺太庁を廃止し、樺太を内地へと編入する、という考えが、改めて取り上げられるようになります。
昭和17年、拓務省の廃止と同時に、樺太庁は内務大臣の下に移り、内務省に組み込まれます。
次いで翌年の昭和18年には、樺太には内地と別々に法令を施行する、という決まり[3]が廃止されます。同時に、多くの権限が、樺太庁長官から各省庁へと移管されました。これがいわゆる樺太の内地編入です。[4]

とはいえ、樺太は、完全に内地と同じになったわけではありませんでした。
樺太庁が存続し、他の府県とは、さまざまな点で違った扱いが続くことになっていました。また、議会の設置など、自治権の付与も、将来へと先送りにされました。
結局、日本の統治下で、樺太が地方自治体、つまり「都道府県」になることはなかったのです。

なお、樺太庁では8月23日が始政記念日と定められ、毎年さまざまな記念行事が行われていました。
平成19年は、樺太庁の設置からちょうど100年にあたります。

支庁って何?

樺太は、非常に広い地域です。そして、通信や交通の手段も、まだ十分に発達しているとは言えない状態でした。

想像してみてください。
例えば、恵須取に住んでいる人が、何かの用件で、樺太庁に行かなければならなくなったとします。樺太庁があるのは豊原ですから、そこまで行く必要があります。
恵須取には鉄道が通じていませんから、まず、130キロメートルあまり南にある久春内へ出ます。この距離は、札幌から旭川(または、東京から由比、西宮から米原、など)の距離に匹敵します。もちろん、現在のような高速道路はありません。
そこから汽車(電車ではありません。文字通りの、いわゆる「SL」です)に乗って豊原へ向かうのですけれど、途中、真岡でいったん列車を乗り換えなければなりません。汽車での移動距離は、合計で200キロメートルを超えます。当時の鉄道では、この距離に約10時間を必要としました。
この調子では、一つ用件をすませるために、何日必要なのでしょうか…

このように、樺太庁だけで樺太全体の行政を行うのは、とても困難です。
このため、各地に樺太庁の窓口となる機関が設置されました。これが支庁です。
上で例にあげた恵須取にも、昭和20年現在、支庁が置かれています。

支庁が置かれるようになったのは、明治40年、樺太庁の設置と同時でした。
当初3か所に設置されていた支庁は、樺太の開発が進み、樺太庁の業務が増加するにつれて、数を増やして行きました。支庁の数が増えて行くと、場所によっては、支庁の仕事を分担する「出張所」という機関が置かれる場合もありました。こうして、昭和の初めには、支庁の数は7つになっていました。
その後、何度かの変化を経て、最終的には昭和18年、4支庁に整理されます。数が減ったのは、上でも触れた、行政簡素化の影響でした。

樺太では、どこがどの支庁の管轄なのかを知っていると、何かと便利です。少なくとも、自分の住んでいる市町村については、知っていた方がよいでしょう。
統計を初め、さまざまな発表も、支庁を通じて行われる場合が多くありました。

下の地図は、昭和20年現在の支庁所在地と、その管轄区域です。

昭和20年の支庁配置

名称所在地管轄区域
豊原支庁豊原市豊原市、
豊北村、川上村、落合町、栄浜村、白縫村、
大泊町、千歳村、深海村、長浜村、遠淵村、知床村、富内村、
留多加町、三郷村、能登呂村
真岡支庁真岡町本斗町、内幌町、好仁村、海馬村、
真岡町、野田町、広地村、蘭泊村、清水村、小能登呂村、
泊居町、名寄村、久春内村
恵須取支庁恵須取町珍内町、恵須取町、塔路町、鵜城村、
名好町、西柵丹村
敷香支庁敷香町元泊村、帆寄村、知取町、
敷香町、内路村、泊岸村、散江村

なお、時期による各支庁の位置と管轄区域の変化については、こちらのページをご覧ください。